InsurTechによる契約者の行動変化について
専攻を志したきっかけ
諏澤教授
保険を研究分野としたきっかけは、損害保険料率算出機構(当時は自動車保険料率算定会)に在職中に米国の損害保険引受人の研修に参加し、保険・リスクマネジメントを体系的に学んだことです。その後、米国セントジョンズ大学修士課程、そして一橋大学博士後期課程で、保険・リスクマネジメントとファイナンスを学ぶ機会を得て、経営、経済、法律、数理、工学など多様な分野から保険・リスクマネジメント理論を学び、研究分野としての奥深さと面白さを知りました。
保険を一言で表現すると?
諏澤教授
保険は、社会を支える二つの重要な機能を持つものです。その一つは、最も利用可能性が高いリスク移転手段の提供、そしてもう一つは、保険会社(保険者)をとおした市場への資金の提供です。
研究のきっかけは?
コのほけん!編集部
諏澤教授
InsurTechは、大量のデータの活用可能性の向上や情報通信技術の発展を背景に、新たな保険商品やサービス、オペレーションを生み出そうとする試みを指します。InsurTechは、商品開発やアンダーライティング、損害調査など、様々な分野に革新を生み出しています。そのなかでも、とくにリスク評価方法に関心を持って注視しています。
InsurTechの用語が一般的となる以前の1990年代から2000年代に、イギリスや米国で登場したテレマティクス自動車保険に興味を持っていました。これは、オドメータを利用したり、なかには衛星通信技術を利用したりして、保険料を過去の走行距離に基づいて決定するもので、PAYD(pay-as-you-drive)自動車保険とも呼ばれていましたが、運営費用の問題から普及が遅れていました。しかし、2000年以降の衛星通信技術の急速な発展に伴い、イギリスや米国でテレマティクス自動車保険が試みられ、日本にも導入されました。
現在では、PAYD(pay-as-you-drive)自動車保険は、運転挙動反映型自動車保険と呼ばれるものに発展し、リアルタイムで運転挙動履歴のデータを収集し、事故リスクを評価して次期保険料などに反映するものとなっています。また、医療保険分野において同様の仕組みに基づく健康増進型医療保険が登場しています。健康増進型医療保険には、健康診断結果などから継続的にリスク再評価を行う方式のものもありますが、被保険者が身に着けたウェアラブル端末から得た歩数などのデータに基づき、被保険者が予め設定された目標を達成した場合に、次期保険料に割引を適用したり、還付金を支払ったりするというものも見られます。
これらの新たなリスク評価方法は、保険市場にいくつかの変化をもたらすと考えられます。保険には、契約締結後に保険契約者または被保険者の行動が変化し、期待保険金の上昇を招くという、モラルハザードの問題が伴います。しかし、運転挙動反映型自動車保険や健康増進型医療保険では、保険会社が、契約後の行動を継続的にモニタリングし、期待損失を低下させる行動を取ればリワードを付与するため、これらの当事者は自らすすんで安全運転や健康維持・改善の努力に励むと期待できます。リスク評価とリワードが適切に設計されていれば、このような仕組みにより、モラルハザードの問題が緩和されるだけでなく、より積極的に期待保険金を低下させると考えられます。
ただし、一方でリスク評価の精度が低い場合、あるいは情報収集と分析、そしてリワード付与のための費用が重い場合には、期待損失の低下が見込めなかったり、保険契約の管理・運営費が高くなりすぎたりするおそれがあります。このようにInsurTechの取り組みには、その効果が未だ不明瞭な点もあります。このため、InsurTechは、研究対象として保険理論上も実務上も、重要なテーマであると言えます。
InsurTechによる保険業界の変革は?
コのほけん!編集部
諏澤教授
InsurTechの潮流は、国際的に見れば、保険商品開発、アンダーライティング、マーケティング、販売、保険契約保全、そして損害調査と保険金支払いといった、いわゆる保険バリューチェーンの各プロセスにおいて、多様な形態を持って進展しています。
たとえば、保険商品開発の分野では、先ほどお話しした情報通信技術を利用した自動車保険や医療保険が登場したり、SNSなどを利用して個人を結びつけるP2P保険などが展開されたりしています。また、アンダーライティングでは、ビッグデータやAIを利用してリスク評価を行い、保険料と補償・保障内容を設計することが実践されています。マーケティングの分野では、情報通信の利便性に基づく双方向性の向上や市場セグメンテーションの細分化と保険商品の個別化が進行しています。保険販売のプロセスでは、AIによる自動アドバイスや非対面販売が実施されています。さらに、契約保全では、契約の統合管理やアプリケーションを通じたリスクコントロールサービスが提供され、また、保険金支払いでは、AIや損失シミュレーションに基づく損害調査の迅速化や保険金請求手続きの簡素化、保険金の適正化などが試みられています。
ただし、これらの取り組みは主に海外で実施されており、日本国内では、先ほど触れた運転挙動反映型自動車保険や健康増進型医療保険のほか、少額短期保険者によるグループ生命保険といった保険商品開発、自動アドバイスや非対面販売、企業分野の損害保険のアンダーライティングと契約保全、そして損害調査などの取り組みが中心であり、未だ取り組みの途上であると言えます。しかしながら、InsurTechの国際的動向は、いずれ日本国内の保険市場にも何らかの変化をもたらすと予想されます。
契約者の保険選択と契約後の行動に影響を与えるInsurTechとは?
コのほけん!編集部
諏澤教授
最初に保険契約に先立つ潜在的な保険契約者(契約申込者)の行動について考えれば、リスク評価の精度が十分高く、その結果に基づいて適正な保険料が適用されること、モニタリングとリスク評価の費用が十分に低いこと、さらに契約者が自らのリスク水準について熟知し、合理的に行動するという条件が満たされれば、運転挙動反映型自動車保険でも健康増進型医療保険でも、契約者は自らに必要な補償・保障を伴う保険契約を選択すると考えられます。しかし、こういった条件を充足することは、現実には困難と言えます。
リスク評価の精度が十分でないことにより、低リスク者から高リスク者に保険料内部補助が行われれば、従来の保険と同様に逆選択が引き起こされるおそれがあります。つまり、高リスク者にとって、その保険料は割安となりすすんで保険に加入する一方で、低リスク者の保険料は割高となり、保険加入を躊躇すると考えられます。その結果、保険収支が悪化すれば、保険会社は保険料を引き上げざるを得なくなり、それでも割安ととらえる、さらにリスクの高い当事者ばかりが保険に加入することになります。また、保険会社のリスク評価のための費用負担が重くなった結果、それが付加保険料に反映され、保険料が引き上げられれば、こうした保険への需要は低下することになります。
つづいて保険契約後の契約者や被保険者の行動に関しては見れば、先ほどお話ししたように、運転挙動反映型自動車保険や健康増進型医療保険における継続的なモニタリングにより、保険契約者や被保険者は事故回避や損失縮小の行動を自発的に取ることが期待されます。その結果、保険収支が改善されれば、保険料の引下げにつながる可能性があります。
つまり、InsurTechは適切なリスク評価と継続的なモニタリングを通じて、契約者の保険選択や契約後の行動に影響を与えると考えられます。これらの要因が組み合わさり、保険市場における逆選択やモラルハザードの問題が緩和されることが期待されます。そして、モラルハザードが低下した結果、これらの保険の収支が改善(期待保険金が低下)すれば、保険料(純保険料)の引下げにもつながると考えられます。
今後の契約者の保険選択と契約後の行動変化は?
コのほけん!編集部
諏澤教授
運転挙動反映型自動車保険や健康増進型医療保険で保険会社が収集するデータは現在のところ限定されているものの、今後の情報通信技術の発展に伴い、自動車保険においては走行地域や時間帯など、医療保険においては血圧や脈拍数、就床時間などもリスク評価のための指標として利用されるようになるかもしれません。
その結果、他社に先んじて低リスク者を引き付けようという競争圧力にさらされる保険会社が、行き過ぎたリスク細分化を行えば、低リスク者ばかりが保険に加入する(負の逆選択と呼ばれることがあります)反面、高リスク者の保険料が禁止的に高くなれば、保険の入手可能性が損なわれることになります。実際には、保険商品の事前認可制度といった保険規制が存在することと、保険会社間の適切な協調が保たれていること、そして、運転挙動反映型自動車保険や健康増進型医療保険が今のところ数多くの保険商品の選択肢の一部に過ぎないことを考えれば、自動車保険や医療保険の入手可能性が一律に低下する事態にはならないと考えられます。しかしInsurTechの一層の進展が、何らかの問題を招くことにならないか、保険規制や保険会社間の協調体制が、現状に適合しているものか、今後も注視する必要があります。
*遺伝子情報とリスク細分化について:生命保険協会が2022年5月に、生命保険実務において、遺伝情報の収集・利用は行っていない旨の周知文書を公表しました。リスク細分化は、期待保険金と正の相関がある指標を用いて、保険料や補償・保障内容を調整することですが、どのような指標を用いてよいわけではなりません。リスク細分化の範囲を決める際には、用いられる指標が社会的に許容されるものかどうかが重要です。リスク指標に対する社会許容性は、国・地域により大きく異なり、また時代とともに変化するものでもあります。たとえば性別は、日本においては広く用いられるリスク指標ですが、海外では使用を禁止している例も見られます。遺伝情報に関しては、現在のところわが国ではリスク指標として社会的に許容されるものでないことは言うまでもなく、生命保険会社と生命保険協会のこれまでの対応も、それに沿った適切なものであったと言えます。
InsurTechは今後どうなる?
コのほけん!編集部
諏澤教授
InsurTechによるリスク評価に基づく保険商品に注目すれば、リスク評価の精度向上と、継続的モニタリングの費用削減、情報の利用可能性向上に伴った保険規制の整備、保険会社間の協調体制などの課題があると考えられます。先ほどお話ししたように、将来的には、利用可能なデータの範囲が一層広がって行き、それに応じてリスク評価の精度向上と、そのための費用削減の努力は今後もなされて行くと考えられます。
たとえば、健康増進型医療保険では、歩数や健康増進活動への参加状況、健康診断結果や、独自に計算したいわゆる健康年齢などの指標値に基づくプログラムはすでに見られますが、将来的にはすでにお話しした、血圧や脈拍数、就床時間、さらには有酸素運動時間、脂肪燃焼運動時間なども用いられるかもしれません。しかしこれらの指標が期待保険金とどの程度相関しているかは、今のところ十分明らかにされているとは言えません。また、それらの情報を収集し分析するための費用負担、保険料割引や還付金付与のための費用負担が保険会社の財務状況にどの程度の影響を与えるのかについても、評価の基準が明確とはなっていません。仮にリスクと相関の低い(保険金低下の効果がない)指標値に基づき、過度のリワードを付与するようなことがあれば、保険会社の財務状況に悪影響が及び、ひいてはその支払能力が損なわれるかもしれません。このことから、低費用で精度の高いリスク評価が可能な指標を見出す努力を、継続することが求められます。また、繰り返しになりますが、次々登場する新たな保険商品に対応した保険規制や、保険業界内での調整体制の整備も必要になると考えられます。
保険商品開発やリスク評価以外の領域でのInsurTechの取り組みについても、今後さらなる分析が求められると思います。たとえば、企業分野の損害保険のアンダーライティングにおいても、AIなど用いて、将来顕在化し得るリスクを高い精度で特定できれば、それに適切に対処することを条件に保険料を割り引くといった保険プログラムを提供すれば、契約者のリスクコントロールへのインセンティブを向上させることもできるでしょう。契約締結後も、保険会社は事前に把握したリスク情報に基づいて、有効なリスクコントロールサービスを、提供できるようになると期待されます。
また、自然災害を対象とした火災保険や地震保険、企業分野の各種の財物保険では、従来の現地において事故の原因や被害状況を把握するという損害調査では、保険金支払いまで時間がかかり、復旧も遅れることになりかねませんでした。しかし、AIや損失シミュレーション、あるいはドローン技術を利用すれば、発生した損害の状況を高い精度で把握でき、保険金支払いの迅速化が可能となるでしょう。そのためには、やはりリスク評価の精度向上と、そういった仕組みを運営する費用を最小化することが求められます。これらの領域についても、今後研究を広げて行ければよいと思っています。
まとめ(編集部後記)
京都産業大学の諏澤教授にお話を伺いました。InsurTechは保険業界において、保険商品開発やアンダーライティング、マーケティング、販売、保険契約保全、損害調査と保険金支払い等の各プロセスに変革をもたらしています。InsurTechを活用し、適切なリスク評価と継続的なモニタリングを実施することで、契約者の保険選択や契約後の行動に影響を与えることが可能であり、また、これらの要因が組み合わさり、保険市場における逆選択やモラルハザードの問題が緩和されることが期待されます。将来的には、InsurTechがもたらす技術革新やサービス改善が、日本の保険市場においても顧客の利便性向上やリスク管理の効率化、さらには新たなビジネスモデルの創出につながる可能性があります。そのため、保険業界は今後もInsurTechの動向に注目し、国内市場においても取り組みを進めることが重要となるでしょう。